軍事思想史入門 第8回【第一次世界大戦前夜】

第一次世界大戦前夜】

 ナポレオン戦争以後、用兵面ではジョミニの思想の影響が大きかったものの、火力の発達からジョミニ的な戦術の限界が見受けられるようになってきた。

 そのような状態の中、ジョミニを筆頭とする旧来の原則にとらわれることなく、戦略を臨機応変の体系と定義し、時代の変化や技術の進歩に合わせて適切な統帥術や用兵術を編み出したのがドイツのモルトケであり、『高級指揮官に与える教令』の中に彼独自の「委任戦術(訓令戦術)」などに関する優れた記述が残されている。普墺戦争普仏戦争での輝かしい勝利によって名声を獲得し、時代の寵児となったモルトケであったが、普仏戦争での経験から将来のヨーロッパにおける戦争が悲惨な形態となることを予測した。そしてその予測は第一次世界大戦の勃発と共に現実となるのである。

 とはいえ、モルトケの予測とは対照的に、第一次世界大戦前夜のヨーロッパでは戦争を好意的に考える思想が主流であり、開戦後の人々の熱狂がそれを物語っていたのである。しかしながら、軍事思想家の中にはモルトケと同様に戦争の形態が悲惨なものになると予測した者も存在していた。

 銀行や鉄道の実業家として財を成したポーランドブロッホ『技術的・経済的・政治的側面から見た将来の戦争』において、将来の戦争がその勝敗にかかわらず交戦国家にとって大惨事となり、全世界にとって自殺行為となることから、もはや戦争は不可能であるはずだと論じた。ブロッホの予言は軍事的、政治的、経済的な面で的中していたものもあったが、当時の軍人たちは元実業家の研究者が出した結論に対しては否定的であった。

 

モルトケ『高級指揮官に与える教令』

ブロッホ『技術的・経済的・政治的側面から見た将来の戦争』

軍事思想史入門 第7回【要塞戦】

【要塞戦】

 古くから中近東や西洋では日干しレンガや石造りの城砦というものが利用されてきたが、火砲(大砲)の発達によって旧来の城砦は陳腐化し、より新しい形の築城方式が求められた。それが、いわゆるイタリア式築城(星形要塞)であり、これによって要塞における包囲戦には攻防両者に新たな知見が求められるようになった。このような要塞での戦いに関する著作の中で特に有名なものは、フランスのヴォーバンによる『要塞攻囲論』である。ヴォーバンは要塞建築だけでなく、要塞攻略においても名手として名高く、彼の著作は要塞に関する古典として知られるようになった。

 また、国土の大部分が湿地や低地から構成されるオランダでは、以前から洪水線と呼ばれる意図的に堤防を決壊させて敵の進軍を困難にさせる防衛法が取られていた。そのような洪水線による浸水を免れた地帯の守りを固める為に要塞建設が推し進められることになり、要塞建築と攻略の名手とされたオランダのクーホルン『湿地や低地における新たな要塞建築』という優れた著作を残した。

 しかしながら、このような形式の要塞も火砲のさらなる発達によって陳腐化されることになり、改良を施した分堡式環状要塞が一般化することになった。この新型要塞の生みの親であるベルギーのブリアルモン『現時築城論』などの著作を残し、このブリアルモン式の要塞が近代後期の戦争における要塞の一般形式となっていった。

 

ヴォーバン『要塞攻囲論』

クーホルン『湿地や低地における新たな要塞建築』

ブリアルモン『現時築城論』

 

軍事思想史入門 第6回【海軍】

【海軍】

 ナポレオン戦争後においては、海軍思想もまた大いに花開いた時代となった。

 海軍思想を説いた作品の中で最も有名なものと言えば、アメリカのマハンの著作海上権力史論』である。これはジョミニの思想を海軍思想に応用したもので、特に艦隊決戦の重要性を大いに主張したことで名高い。また、マハンの唱えた「シーパワー(海上権力)」という概念は、後の地政学に大きな影響を与えたことも功績として挙げられる。

 その一方で、イギリスのコーベット『海洋戦略の諸原則』クラウゼヴィッツ的な視点を取り入れつつ、マハンの考えに批判を行った。彼は歴史上では海戦だけでは決定的な戦勝を得られなかった事例を挙げつつ、海軍万能論に傾きがちだったマハンの考えに対し、陸軍や外交との協力の重要性を主張した。また、マハンが重要視する艦隊決戦よりも海上コミュニケーション網の確保を重んじる考えなどは、第一次世界大戦イギリス海軍の方針にも影響を与えたという。

 また、フランスでは従来の海軍思想で常識とされた戦艦のような大型艦と艦載砲を重んじる考えに対し、快速の小型艦艇と水雷兵器の組み合わせを重視する青年学派(新生学派)と呼ばれる考えが勃興した。特にその考えを代表するものがフランスのオーブによる『海洋戦争とフランスの軍港』である。また、フランスのダリウスはその著書『海戦史論』で主に海軍の歴史を研究しつつ青年学派の考えを批判した。

 

マハン『海上権力史論』

コーベット『海洋戦略の諸原則』

オーブ『海洋戦争とフランスの軍港』

ダリウス『海戦史論』

 

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軍事思想史入門 第5回【フランス革命後】

フランス革命後】

 フランス革命は世界史上で多大な影響を与えると共に、軍事においてもまた非常に大きな影響を与えたのは言うまでもない。軍事思想上で重要な著作はこのフランス革命以降の時期に執筆された物が多い

 まず、軍事思想上の地均しとなったのは、プロイセンビューローによる『新戦争大系の精神』である。ビューローは「戦術」と「戦略」の定義を明確にし、この二つを対照的なものとして扱ったことに意義があるとされる。ビューローは軍事専門用語の定義づけを明瞭にし、また戦略の持つ重要性を盛んに説いた。その一方で、ビューローは幾何学的な「作戦角」という概念を提唱し、数学のように合理的に戦争を遂行することを主張したが、これは机上の空論に近いもので多くの批判にさらされることになった。

 さて、この時代における軍事上の一大人物と言えばフランスのナポレオンで間違いないだろう。ナポレオン自身は軍事的な著作を残さず、彼の言葉をまとめた『言行録』などが残されているだけだが、ナポレオンの統帥術や用兵術はある種の理想化を受け、彼の行った戦争は大いに研究の対象となった。

 ナポレオン戦争終結後、軍事思想上で大きな影響を及ぼした人物と言えばジョミニ、そして何よりクラウゼヴィッツの名を挙げなければならない。

 スイスのジョミニ『戦争概論』の中で、それに従えばほとんどの場合で勝利を手に入れることが出来る若干の基本原則があるという「戦いの原則」を主張し、ナポレオンもまたこの戦いの原則の優れた理解者であり応用者であると考えた。このジョミニの戦いの原則は当時の軍事学界に大きな衝撃を与え、後の軍事思想の発展にも大きな影響を与えた。ジョミニ的な用兵術はしばらくの間は全面的に、現在に至っても部分的に参考にされている。

 さて、軍事思想上で最も重要な人物と著作を挙げるとすれば、プロイセンクラウゼヴィッツとその著作戦争論であることは間違いないだろう。先のジョミニの『戦争概論』の内容が実践的であったのに対し、クラウゼヴィッツの『戦争論』は哲学的と称されており、従来の軍事思想は「戦争にどのようにして勝利するか」という方法論に重点が置かれていたのに対し、クラウゼヴィッツは「戦争とは何か」という観点に立っており、「戦争は政治の継続(延長)」とする彼の主張は軍事学を学ぶ者にとって馴染み深いものとなっている。この示唆に富んだ軍事思想の大著は未完成の不完全なものであったが、それでもなお今日の研究者にとっても刮目に値する傑作だとされている。

 

ビューロー『新戦争大系の精神』

ナポレオン『言行録』

ジョミニ『戦争概論』

クラウゼヴィッツ戦争論

 

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軍事思想史入門 第4回【フランス革命前夜】

フランス革命前夜】

 七年戦争の勝利がプロイセンに栄光をもたらしたように、七年戦争で敗北を味わったフランスでは様々な新思想が登場することになる。それこそが、後のフランス革命後の諸戦争で新生フランス軍が各国を席巻する下地となっていたのはあまり知られていない。

 その最も代表的な著作と言われているのが、フランスのギベールによる『戦術一般論』である。この著作の中では国民軍の創設など、後のフランス軍だけでなく近代的軍隊に影響を与えたような先進的な考えも含まれていたが、革命前の保守的なフランス軍内で受け入れられることはなかった。

 そのようなギベールの批判者の中でも、軍事思想上で重要な役割を果たした人物がいる。それはフランスのマイゼロアであり、彼の後期の著作である『戦争理論』が果たした役割は非常に大きい。マイゼロアは古代ギリシャ・ローマや中世のビザンツ帝国の研究を進めながら、先に登場したマウリキウスの『ストラテギコン』やレオーン六世の『タクティカ』の翻訳を行った。そして、ストラテギコンの名からストラテジー、つまり「戦略」という概念を生み出し、それを一般化させたという功績を残したのである。

 それ以外にもフランスではデュ・テイユ『野戦における新しい砲兵用法』や、ブールセ『山地戦の原則』などといった優れた軍事書籍が登場し、フランス革命後のフランス軍やナポレオンの天才的用兵術を支えることになったのである。また、イギリスのロイド『軍事的回想』において、当時では漠然とした概念であった作戦線を自身の理論の中に取り入れ、後の軍事思想に影響を与えることになった。

 

 

ギベール『戦術一般論』

マイゼロア『戦争理論』

デュ・テイユ『野戦における新しい砲兵用法』

ブールセ『山地戦の原則』

ロイド『軍事的回想』

軍事思想史入門 第3回【三十年戦争から七年戦争】

三十年戦争から七年戦争

 三十年戦争ウェストファリア条約に基づく主権国家体制の成立だけでなく、軍事思想上においても多大な影響を与えた戦争となった。その背景として活版印刷術の登場により書籍の発行が容易になったことや、科学思想の広まりから軍事的な思想や知見を理論的かつ体系的に残そうとするようになったことが推察される。

 三十年戦争以前からスペインとの独立戦争(八十年戦争)を戦っていたオランダのマウリッツは、優れた軍事教練の手法を開発するだけでなく、それを図版付きの書物『武器の操作、火縄銃・マスケット・槍について』という形でマニュアル化し、誰もがその本を読めば新式の軍事教練のやり方を学べるようにした。また、マウリッツはヨーロッパ初とされる士官学校を創設して軍事教育に関して多大な功績を残した。

 確かにマウリッツが残した軍事上の功績は偉大なものであったが、やはりこの時代を代表する軍事思想上の作品と言えるのはオーストリアモンテクッコリによる『戦争術』である。モンテクッコリは三十年戦争や後の戦争においてハプスブルク側の名将として知られ、その実績も相まって彼の著作もまた高い評価を受けることになった。彼は時代や地域を越えて通用する一般的な原理原則を求めたが、現代的な視点で見れば未熟なものも見受けられたという。ともあれ、モンテクッコリ以降、戦争をより科学的、理論的に取り扱おうとする傾向が生じてきた。

 それから時は流れ、オーストリア継承戦争七年戦争を戦い抜いたプロイセンの国王フリードリヒ二世は、プロイセン国王の将軍への軍事教令』によってその優れた知見を後世に残した。啓蒙専制君主として上からの近代化とプロイセンの大国化を推し進めた名君であると同時に、優れた軍事指揮官としての素質を示したフリードリヒ二世による著作は高く評価され、各国で読み解かれるようになったという。

 

マウリッツ『武器の操作、火縄銃・マスケット・槍について』

モンテクッコリ『戦争術』

フリードリヒ二世プロイセン国王の将軍への軍事教令』

 

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軍事思想史入門 第2回【中世・ルネサンス】

【中世・ルネサンス

 ローマ帝国の衰退を背景とする西ヨーロッパの中世において、軍事思想もまた衰退の道を歩むこととなった。当時の西ヨーロッパでは古代ローマの軍制が失われただけでなく、優れた古典であるはずのウェゲティウスの『軍事論』も軍人よりもむしろ学者によって読まれていたに過ぎず、軍事思想の大きな発展は見られなかった。むしろ、軍事思想はビザンツ帝国(東ローマ)において花開くことになったのである。

 当時のビザンツ帝国は周辺の多くの異民族や異教徒、時に西ヨーロッパの軍勢とも争わなければならない過酷な状況にあった。戦乱は常であり、敵将の買収や不意打ちなどの卑怯な手段も含めて、あらゆる方法で自国防衛に励まなければならない立場にあったのである。そのような状況こそ、ビザンツ帝国に優れた軍事思想を生み出す源泉となったのである。その代表作と言えるものは、皇帝マウリキウス『ストラテギコン』や皇帝レオーン六世『タクティカ』である。どちらも皇帝によって執筆されたということから、当時のビザンツ帝国における軍事思想の重要さが伝わってくるだろう。

 西ヨーロッパではルネサンス期になり、古代ギリシャ・ローマへの関心が高まる中で、君主論で有名なイタリアのマキャヴェリ古代ローマの軍制や運用を研究し『戦争術』を執筆した。よく知られているように、マキャヴェリは軍人ではなく役人であり学者側の人間であった。このように依然として西ヨーロッパにおける軍事思想は、軍務よりも学問に携わる者が執筆する傾向が強かったが、三十年戦争ごろから次第に変化していくことになる。

 

マウリキウス『ストラテギコン』

レオーン六世『タクティカ』

マキャヴェリ『戦争術』

 

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